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熱海はその昔およそ1500年位前、仁賢天皇の時代に海中から熱湯が噴き出した影響で沢山の魚が死に、魚が獲れず困っていた漁民たちの声を箱根権現の万巻上人が聞き、祈願する事で源泉を海中から山里に移し、「この前にお社を建てて拝めば、現世も病を治し、来世も幸せに暮らせる」と人々に説いたと伝わっており、その源泉が現在の大湯であり、お社は現在の湯前神社と云われています。「熱海」と書いて「あたみ」と読む地名の由来は、その様に海中より凄まじく沸きあがる温泉で海水が熱湯となった為、「あつうみが崎」と呼ばれ、それが変じて「あたみ」と称されるようになったと云われています。
又、熱海は昔より日本の歴史上において、名を留める人物との関わりが非常に多くある地でもあり、その代表的な人物に源頼朝や徳川家康が挙げられます。そして明治以降も政財界や文化人・知識階級の人々が熱海を活躍の場とし、その名を残した方が大勢おられます。その由緒ある熱海に、㈱中山製鋼所の創業者である中山悦治氏は、大観荘の前身である別邸を昭和15年に建てられました。その後、旅館としての始まりは昭和23年7月からで、時代の変化と共に大観荘は今にいたっております。今日までお陰様をもって営業が続けて来られた事は、是までに沢山のお客様より頂いたご支援の賜物と、心から敬意と感謝の念をこの場を借りて申し上げる次第でございます。
熱海大観荘は昭和13年に㈱中山製鋼所の創業者である中山悦治翁がこの地を買収、その後中山悦治翁の別荘として建てられたのがその始まりです。旅館として営業を開始したのは昭和23年7月23日、当時は現在本館の5室と離れが1室の6室でのスタートでした。昭和31年には「政府登録国際観光旅館」として「第97号」の指定を受け、本格的な旅館としての営業形態がなされました。現在では「横山大観ゆかりの宿」として親しまれるようになりました。
その当時、横山大観画伯は熱海伊豆山に別荘を持ち、熱海をこよなく愛されたそうです。大観画伯と中山翁とは懇意の間柄にあり、大観画伯は大観荘を大変気に入られ、しばしば大観荘を訪れては宿泊され、時にはそこで絵筆を執られたとも聞いております。大観画伯が宿泊された部屋は現在の「大観の間」として残っており、現在でも客室として使われております。また中山翁は旅館開業にあたり、大観画伯の名前を頂戴したいとお願いしたところ、大観画伯も「ここの眺めは雄大であり、大観の名にふさわしい」と快く承諾していただき「大観荘」の名前がついたと云われております。
龍居松之助氏は日本庭園協会、日本造園協会、日本造園士会設立などに参加し、我が国の「造園学」の草分けと呼ぶに相応しい活動を続け、昭和33年には紫綬褒章を授賞されました。熱海大観荘の庭園は、当初中山翁の手により作庭が進められていたのですが、中山翁は造園研究家の龍居氏と知り合い、完成間近にあった庭園を壊し、龍居氏の手に委ねました。氏は大島や初島の借景を十分考慮に入れ、既に完成していた池を取り壊すなど思いきった改造を施し、新たに作り直す大工事ながら、中山翁は一言の苦言を呈することなく見守り、庭園は見事に完成したのでした。龍居氏の造園家としての腕が、いかに高く買われていたかが伺えるエピソードといえるでしょう。
平田雅哉氏は数寄屋造りでは第一人者と言われ、あの巨匠建築家である「村野藤吾」でさえ傾倒するほどに、建築に関してはまさに「鬼」という表現がふさわしい存在でした。建築家として製図は勿論欠くことの出来ない仕事ですが平田氏ほど製図を書き続けた建築家はいないと言われ、大半の時間をこの製図と趣味である彫刻に費やしたと言われています。平田氏と中山翁の出会いは、中山翁が芦屋に本宅を手掛けた時に始まります。当初中山翁には、この平田雅哉という男がかなり奇異に映ったようです。たとえ施主に対しても、筋の通らぬ事は聞かず、お世辞一つ言わぬその態度は強く印象に残ったのでした。中山翁はそんな平田氏の資質を見抜き、その後も数多くの仕事を任せその中一つが熱海の別荘、即ち大観荘なのです。現在別荘時代から残っている部屋は本館の「大観の間」と「松風の間」です。今現在はございませんが「光琳の間」も平田氏の手掛けた大観荘を代表する一室でした。